MO journal

ものづくり、カフェ、日々のいろいろ

死ぬということ。

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これをみんなはどのように受け止めているのだろうか?

ぼくはふとそんなことを考えたりすることがあります。

 

静寂に包まれた青白い写真

 

幸運なことに、ぼくは33歳になるまで生きることができました。

そして結婚という幸せなイベントも経験しました。

 

ぼくの両親も、妻の両親もなんらかの不調をかかえながらも毎日を生きています。

 

そう。そんな幸運な事実があるにもかかわらず、ふと死ということが頭をよぎることがあるのです。

これは僕が「死にたい」とかいうことではなく、「死ぬ」といった行為は世界で唯一平等で、そのうち誰しもが経験することであり、だからこそとても尊いものだと感じるのです。

 

ぼくの両親もそのうち死にます。

妻の両親だっておなじ。

 

そして遅かれ早かれ、僕や妻も死んでいくわけです。

ぼくらはまだ子どもがいませんが、いま無邪気に走りまわっている甥っ子や姪っ子にも、そのうち死はやってくるわけです。

 

あ、これって、あくまでも不老不死になるような薬が開発されないって前提ですよ。

ドラゴンボールでフリーザがシェンロンに願い事しようとしてたような。

もしそういったものができれば世界はよりいっそう破滅の方向に進んでいく気がしますが…。

 

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そう考えたときに、ぼくは「じゃぁ何で生きることが大切なのか」と自問自答した時期がありました。

そう。お察しのとおり、ぼくがうつ病を患っていたときです。

ひとり孤独と絶望を感じてたとき、死という言葉がものすごい現実感をもって襲ってきました。

 

トレドミンといった目の前にある薬を一気にぜんぶ飲んだらどうなるのか。

見晴らしのいい崖にいって「スーッ」と引き込まれそうになってふと我に返ったり。

 

そんな経験をしたことがいまだに死という悲しくも尊いできごとを身近に感じさせるのでしょう。

 

念のため繰り返しことわっておきますが、ホントに「死にたい」と思ってるとかそんなのじゃないですからね。たんに死という誰にでもくる現実をおそらく他のひとよりも身近に感じてるだけだとおもいます…。

 

まぁでも身近なひとの死を経験するとみんな感じますよね?

 

ぼくはお婆ちゃんが亡くなったときに遺体に触れ、あの生気を失った肌の冷たさをいまだに忘れることができません。

これが「死ぬ」ということなんだな、と実感したのをおぼえています。

 

とまぁ、なにが言いたいのか意味不明ですが、生きてる限りひとは死ぬ。そして死ぬことを意識したときに、ぼくらは今の時間が有限であることを現実感をともなって悟り、毎日を楽しくも一生懸命に生きることができるようになるんじゃないだろうか。

 

と、ふと感じました。

たんに感想文めいたものを記しておきたかっただけです。

ここまで読んでくれたかた、ありがとうございます。

 

それではまた。チャオ!